神田末広町で魚屋・仕出し
料理屋の「魚安」を開業
創業した由平(好月)は新潟の加茂市出身。この店舗の場所は現在の外神田三丁目で、神田明神下の花街に仕出し料理を納めていました。
この店を一回り年の離れた弟・寅吉(とらきち)に譲り、自身は後に東京・麻布で寿司屋を開きました。
創業した由平(好月)は新潟の加茂市出身。この店舗の場所は現在の外神田三丁目で、神田明神下の花街に仕出し料理を納めていました。
この店を一回り年の離れた弟・寅吉(とらきち)に譲り、自身は後に東京・麻布で寿司屋を開きました。
関東大震災で被災した寅吉は九死に一生を得ました。この際の出来事が店名の由来となりました。
震災後、屋台などをしながら生計を立て、店舗再開を準備しました。
神田富山町は神田駅前、現在の鍛冶町二丁目。間口が狭く、カウンター4、5席と小上がりがある小さな店でした。当初は魚料理や煮物、おでん、天麩羅などを出す日本料理店だったが、次第に天麩羅が評判となり、天麩羅を中心とする店となりました。
3月の東京大空襲で神田駅周辺は焼け野原となり、富山町の店舗は焼失しました。
終戦前後、寅吉は神保町で復員兵相手の屋台などで働きました。
終戦後の混乱期に「はちまき」は、すずらん通りに移転して営業を再開しました。昭和2年築のモダンな看板建築の建物に入居、現在もこの建物で営業しています。
神保町は空襲を免れていたため、焼け野原の東京で数少ない繁華街となりました。また、周辺の焼け残った学士会館、山の上ホテルなどが占領軍関連施設となり、そのため、昭和30年頃にかけて神保町は人が多く集まり、店は大いに繁盛しました。
廿七会は、江戸川乱歩をはじめとした作家たちが毎月27日に集まる会合。後に「東京作家クラブ」となりました。「はちまき」の2階でこの会が開催されました。
廿七会の中心人物。戦前からの常連。寅吉に「ご飯の上に穴子とエビの天麩羅を乗せてタレをかけてくれ」と頼み、はちまきの穴子天丼の原型を作りました。店によく知られる銘書の直筆「晝(ひる)は夢 夜ぞ現(うつつ)」を残しています。
神田須田町の火消しの家出身で、昭和の名俳優。戦前からの常連客。松竹三羽烏として人気となり、店の外にはファンが出待ちしていました。
新国劇などで活躍した重鎮。「王将」三部作(棋士・坂田三吉の物語)などが代表作。
時代小説の大家。直筆サインを残しています。
その他、芸能関係者、明治大学関係者など多数
東京の老舗天麩羅店が集まりである「東天会」に参加。東天会では後に、築地・波除神社に「海老塚」(供養碑)を建立しました。
文雄(ふみお)は、昭和30年に明治大学商学部卒業後、国鉄に就職したが、昭和34年頃、店が繁盛していたため父・寅吉に呼び戻されました。
職人気質で、仕入れにもこだわり、日々築地に通いました。
78歳の時、築地で仕入れ中に脳梗塞で倒れましたが、そんな中でも買ったばかりの穴子をさばけるかを心配をしていました。
父が倒れたことをきっかけに昌宏(まさひろ)が店を継ぎます。当初は職人任せでしたが、一念発起して自ら板場に立つように。趣味は健康維持のためのランニング。