店の前で俳優・佐野周二さんらと
店の前で俳優・佐野周二さんらと
昭和28年ごろの店舗外観
昭和28年ごろの店舗外観
明治大学の学生たちと店主・寅吉
明治大学の学生たちと店主・寅吉
厨房に立つ店主・寅吉
厨房に立つ店主・寅吉
昭和時代の店内の様子
昭和時代の店内の様子
店主・寅吉と家族ら
店主・寅吉と家族ら
文豪たちが集った廿七会
文豪たちが集った廿七会
明大生と店主・寅吉
明大生と店主・寅吉

「はちまき」の歴史 HISTORY OF HACHIMAKI

初代・青木好月時代

明治40年(1907年)

神田末広町で魚屋・仕出し
料理屋の「魚安」を開業

創業した由平(好月)は新潟の加茂市出身。この店舗の場所は現在の外神田三丁目で、神田明神下の花街に仕出し料理を納めていました。

この店を一回り年の離れた弟・寅吉(とらきち)に譲り、自身は後に東京・麻布で寿司屋を開きました。

戦後、日本郷土民謡協会の理事長としても活躍した初代・青木好月(中央の座っている人物)
戦後、日本郷土民謡協会の理事長としても活躍した初代・青木好月(中央の座っている人物)
初代・好月(前列右から2人目)と弟の二代目・寅吉(最後列右端)がともに写った青木家の家族写真
初代・好月(前列右から2人目)と弟の二代目・寅吉(最後列右端)がともに写った青木家の家族写真

二代目・青木寅吉による創業

大正12年(1923年)

「魚安」を継いだ直後、
関東大震災で被災

関東大震災で被災した寅吉は九死に一生を得ました。この際の出来事が店名の由来となりました。

震災後、屋台などをしながら生計を立て、店舗再開を準備しました。

昭和6年(1931年)

神田富山町で「はちまき」開店

神田富山町は神田駅前、現在の鍛冶町二丁目。間口が狭く、カウンター4、5席と小上がりがある小さな店でした。当初は魚料理や煮物、おでん、天麩羅などを出す日本料理店だったが、次第に天麩羅が評判となり、天麩羅を中心とする店となりました。

神田富山町時代の店舗外観。ガラス戸の内側に「はちまき」と書いたのれんが見える
神田富山町時代の店舗外観。ガラス戸の内側に「はちまき」と書いたのれんが見える

昭和20年(1945年)

空襲で店舗が焼失

3月の東京大空襲で神田駅周辺は焼け野原となり、富山町の店舗は焼失しました。

終戦前後、寅吉は神保町で復員兵相手の屋台などで働きました。

昭和20年(1945年)

神田神保町すずらん通りで
店舗再開

終戦後の混乱期に「はちまき」は、すずらん通りに移転して営業を再開しました。昭和2年築のモダンな看板建築の建物に入居、現在もこの建物で営業しています。

昭和28年(1953年)ごろの店舗外観。店構えは異なるが、外壁のタイルは現在も同じ
昭和28年(1953年)ごろの店舗外観。店構えは異なるが、外壁のタイルは現在も同じ

戦後復興期(昭和20年代〜30年代)

昭和20年代

神保町の賑わい

神保町は空襲を免れていたため、焼け野原の東京で数少ない繁華街となりました。また、周辺の焼け残った学士会館、山の上ホテルなどが占領軍関連施設となり、そのため、昭和30年頃にかけて神保町は人が多く集まり、店は大いに繁盛しました。

昭和20年代

「廿七会(にじゅうしち
かい)」の開催

廿七会は、江戸川乱歩をはじめとした作家たちが毎月27日に集まる会合。後に「東京作家クラブ」となりました。「はちまき」の2階でこの会が開催されました。

廿七会の集合写真。はちまき姿の店主・寅吉の右隣、寅吉の肩に手を置いているのが江戸川乱歩先生。その右で腕を組むのが海音寺潮五郎先生。寅吉の左後ろは、昭和の大俳優・佐野周二さん。
廿七会の集合写真。はちまき姿の店主・寅吉の右隣、寅吉の肩に手を置いているのが江戸川乱歩先生。その右で腕を組むのが海音寺潮五郎先生。寅吉の左後ろは、昭和の大俳優・佐野周二さん。

著名な常連客

廿七会に集った文化人たち


■ 江戸川乱歩

廿七会の中心人物。戦前からの常連。寅吉に「ご飯の上に穴子とエビの天麩羅を乗せてタレをかけてくれ」と頼み、はちまきの穴子天丼の原型を作りました。店によく知られる銘書の直筆「晝(ひる)は夢 夜ぞ現(うつつ)」を残しています。

■ 佐野周二(俳優)

神田須田町の火消しの家出身で、昭和の名俳優。戦前からの常連客。松竹三羽烏として人気となり、店の外にはファンが出待ちしていました。

■ 北條秀司(劇作家)

新国劇などで活躍した重鎮。「王将」三部作(棋士・坂田三吉の物語)などが代表作。

■ 海音寺潮五郎(作家)

時代小説の大家。直筆サインを残しています。

■ 田辺茂一(紀伊國屋書店創業者)

■ 井伏鱒二(作家)

その他、芸能関係者、明治大学関係者など多数

現在も店に残る江戸川乱歩先生の色紙
現在も店に残る江戸川乱歩先生の色紙
店主・寅吉(左端)と佐野周二さん(後列右端)は家族ぐるみの付き合い。店の前での記念写真
店主・寅吉(左端)と佐野周二さん(後列右端)は家族ぐるみの付き合い。店の前での記念写真
北條秀司先生から贈られた額は今でも店内に飾られている
北條秀司先生から贈られた額は今でも店内に飾られている
多くの人に慕われた寅吉
多くの人に慕われた寅吉
明大野球部の名物監督だった島岡御大監督(中央)、野球部の面々と寅吉
明大野球部の名物監督だった島岡御大監督(中央)、野球部の面々と寅吉
すずらん通りのアーケードが完成し、テープカットを行う、遠山千代田区長(中央)と寅吉(右隣)
すずらん通りのアーケードが完成し、テープカットを行う、遠山千代田区長(中央)と寅吉(右隣)

昭和27年(1952年)

東天会を結成

東京の老舗天麩羅店が集まりである「東天会」に参加。東天会では後に、築地・波除神社に「海老塚」(供養碑)を建立しました。

いまも残る昭和時代の貴重な暖簾
いまも残る昭和時代の貴重な暖簾

三代目から四代目へ

昭和34年(1959年)ごろ

三代目・青木文雄が継ぐ

文雄(ふみお)は、昭和30年に明治大学商学部卒業後、国鉄に就職したが、昭和34年頃、店が繁盛していたため父・寅吉に呼び戻されました。

職人気質で、仕入れにもこだわり、日々築地に通いました。

78歳の時、築地で仕入れ中に脳梗塞で倒れましたが、そんな中でも買ったばかりの穴子をさばけるかを心配をしていました。

三代目の文雄・邦子夫妻
三代目の文雄・邦子夫妻

平成21年(2009年)

四代目・青木昌宏が継ぐ

父が倒れたことをきっかけに昌宏(まさひろ)が店を継ぎます。当初は職人任せでしたが、一念発起して自ら板場に立つように。趣味は健康維持のためのランニング。

昭和の面影をそのまま残す、現在の店舗外観
昭和の面影をそのまま残す、現在の店舗外観